公衆電話のオトコ
公衆電話の中で、大学生らしき男が、スーツケースに腰を掛けて、煙草を吸いながらドコかへ電話していた。
夕暮れの、西日が眩しい、四ツ谷駅でのことだ。
スーツ姿のサラリーマンたちが、巣穴に戻るゴキブリのように、なんだか、少し苛ついたように歩いている。
そんな中、大学生らしき男は、ぼーっと煙草の灯を見ながら受話器を耳に当てている。
彼の周りだけは時間が流れていないように思われた。
ぼーっと見ていた私に、サラリーマンがぶつかった。
「真ん中に突っ立ってるんじゃねえよ」
男は小さい声で呟いた。
私は歩き出すが、公衆電話の男はまだそこにいた。
時計がなければいいのに、とふと思う。
時計がなければ、もっと幸せになれるかもしれない――、そんなことを思った。
私は四ツ谷駅の看板の下で、もう1度振り向いた。
やっぱり男はそこにいた。
彼の電話はどこに繋がっているのだろうか。
電車に揺られながら考え続けた。
キミの文章にはリアルがないってさ
「キミは泉鏡花の真似をしてるのかわからないけれど、キミは彼みたいにはなれないよ。彼の文章は現実離れしているようで、真実がある。なんたって苦労してるからね。しかしね、キミの文章からはそれが見えてこない」
それはどうしようもないじゃないか……、と思った。確かに私は苦労をしていないかもしれない。けれどもそれは、どうしろっていうんだ?
大学時代、とある文学賞で賞を取って、小説家の先生に好評をもらったときの話である。
それから幾星霜――。
会社員になってからも私はまだ小説家を目指している。とは云え学生時代の無尽蔵な時間とは違い、限りある時間で小説を書くことは難しく、掌の小説を書いて満足していた。
ある時、理由は思い出せないが、会社の先輩に小説を送りつけた。
先輩はしっかり読んでくれて云った。
「キミの文章にはリアルがない」
「え?」
「なんだろう、もっと経験したコトとかを書けばいいんじゃない、まあ、この幽玄さがいいのかしら、わかりませんが」
私は唸った。
だって経験したことを書くなんて、それじゃあ、ブログじゃないか。
それとも経験したことを散らばして、物語にリアルさを組み込むのか。
いや、そもそも物語にノンフィクションは必要なのか?
わからない。わからないので、考えないことにする。
とりあえず私はココに嘘か真かわからないようなことを書き綴る。真実も散りばめて、嘘を書く。あるいは嘘を散りばめて、真実を書く。