ピアスの穴と神経
くしゃみをすると、鼻から糸がたれてきた。
そういえば中学生の頃、周りがピアスの穴を空け始めた時に、ピアスの穴から糸が出てきて、それを引っ張ると実は視神経で、失明するとかいう都市伝説があったと思い出す。
当時はそれに、ずいぶん恐怖したものだ。
思わず「家庭の医学」を引っ張り出して、調べたコトもある。
「家庭の医学」に答えは書いていなかったが、何かの書籍で耳に視神経なんてないと知って、とても安心した。
――しかし鼻に神経がないなんて言い切れるのだろうか。
不意に思った。思ったら頭の中で恐怖が渦巻き始める。
この糸がなにかの神経であるという可能性は持ち合わせの知識で否定することができない。
私はゆっくりと鼻を啜ってみるが、糸は垂れたままである。
仕方ないので、糸を垂らしたまま生活をするコトになった。
しかしどうにも気になる。例えばこの糸を、ちょうちょ結びにしてみてはどうだろうか、などと考えてみるが、神経をお洒落の手段にしているやつに、ろくな奴はいないだろうと思いとどまる。
とはいえ、やっぱり煩わしい。
なんといっても鼻水と誤解されるのが最も困った。
「ねえちょっと、鼻水たれてるよ」
同僚は少しためらって云った。
これは鼻水じゃなくて、何かの神経かもしれないんだよ、と云おうとして辞める。
どうせ馬鹿にされる。
そして、やっぱり鼻水として見られているのかと思うと恥ずかしくなった。
「あー、鼻からなんか垂れてきたけど、鼻水じゃないし、なんだろうこれ」
と私は大声で云いながら町を歩くことにした
それはそれで恥ずかしいのだけれど、鼻水と誤解されないですむ。
しばらくすると町を歩いていても誰もこちらを見なくなったので、安心すると同時に、会社でもどこか距離をおかれるようになった。
町はせまい、と改めて思う。
突然――、ある日、起きたら糸が消えていた。
切れたのだろうか、あるいは鼻の中に戻ったのだろうか。
――真相はわからない。
誰かに聞きたいが同僚たちは私を恐れているようだし、町を歩いても避けられる。
鼻から出た糸、キミだけが友だちだったのに――。
なんだかひどい喪失感を感じる。
とある爽やかな朝のこと
通勤時、満員電車に揺られていると、前に座るオトコが、にやにやと私を見ている。
電車が揺れるたびに、隣のヒトの体重がのしかかってきて、煩わしい。
オトコはそんな姿を見て、笑っているように思われる。
――なんとなく負けじとオトコを見つめ返していると、鹿島さんの話を思い出した。
鹿島さんの友人にAくんという男がいた。
彼は毎朝、始発で、最寄り駅から沿線の始発駅までゆく。そうして1番混む電車に座って乗り込んで、満員電車でいらいらするサラリーマンを、にやにやと見つめるということを、大学在学中、毎日行っていたという。
「意味なんてあるのでしょうか?」
私は思わず鹿島さんに聞いた。
「ないだろうね」
鹿島さんは笑って云った。
「ではなぜそんなことをしていたのでしょうか?」
「君は意味ないことはやらないのかい?」
彼はそう云って続ける。
「意味ないことしかやらないなんて云っていると、いずれ生きれなくなるよ。生きてるコトに意味なんてないのだから」
当時、鹿島さんは酔っていたのか、ずいぶん青臭いコトを云った。
なんとなく、オトコの足を蹴っ飛ばした。
周りの乗客がさっと私から離れていくのを感じる。
オトコは驚いたように、ぎょっとしている。
誰かが私の肩を叩いて、
「次の駅で降りてください」と云った。
「意味なんてないよ、ただなんとなく蹴っただけだ。何が悪い」
私は呟いた。
「君は悪くない、君は悪くないから落ち着いて」
いつの間にかきた駅員は私の肩を叩きながら云った。
乗客は怯えたように私を見ている。
土手とお巡りさん
会社帰りに、少しだけ土手を歩くことにした。川から吹く風が冷たく、外套の襟をたてる。いつも散歩する土手だが、夜になると急に、先がなく、延々と続くように思われた。
先日私を誘惑した桜の木は、もうどれだかわからなくなってしまった。
なぜだかそれが妙に悲しい。
あの時うろに入っていたらどうなっていたのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、前から警察が歩いてくる。
――なんだか、ひどく不安になった。
「何をしているのですか?」
やっぱり警察に聞かれる。
「散歩ですよ」
「こんな時間に?」
「ええ、会社帰りなので」
「なるほど、最近ここらへんで奇妙なコトが頻発しているのですよ」
「奇妙なコト?」
警察官は私を、観察するように、少し濡れた2つの目玉で、舐めるように見ている。
「ええ、人の家の蜜柑をじっと見て、石を投げつけようとしているヒトとか」
「それはいけませんね」
「あなたじゃありませんか?」
「なぜ?」
「なぜかはわかりませんが、あなたでしょう」
川でぽちゃんと音がする。こんな時期に魚がいるのだろうか。あるいはこんな時間にも関わらず、どこかの男の子が石を投げているのかもしれない。
「お巡りさん、私は――、」
「お巡りさんって云うなッ」
警察は急に怒鳴った。
曇っているせいか、どこか遠くの踏切の音が、曖昧に聞こえてくる。
「私はお巡りさんと云われるのが一等気に喰わない。なにが犬のお巡りさんだ、つまらない」
私は所在なく、怒り散らす警察官を見ていた。
「あなたたちは警察を馬鹿にしているのだろう。やれ、点数稼ぎの速度測定だとか――」
ふいにがさごそと聞こえたと思うと、警察の胸につけた無線が喋りだした。
「こちら、蜜柑の木に蹴りを入れ続ける男を発見。応援求む――」
警察はちらりと私を見た。
「本当はあなたでしょう」
さっきの取り乱した声とは打って変わった落ち着いた声で、彼は云った。
私は黙って踵返した。背中に一筋の汗が垂れるのがわかった。慌てないように、変に怪しまれないように、ゆっくりと歩く。
警察が追ってくると思われたが、彼は私とは反対方向に走っていった。
帰りに蜜柑の木の前を通った。
その姿を見てひどくムカついたが、今日は許してやろうと思って帰宅した。
曇っているせいか、どこかでパトカーの走る音が、曖昧に聞こえてくる。
隣人とろうそくについて
「冬の、百物語も風流じゃないか」
先輩はふいに云った。
土曜日の夕暮れ、私は特に用事もないので、先輩の家にお邪魔していた。
彼の部屋は築うん十年と経った木造建築の2階で、かぜがふくとよく揺れる。
1階では煙草屋が営業しているので、この部屋では、煙草を欠くということがなかった。
だるまストーブの上で暖められた薬缶がひっきりなしに鳴いている。そこから出る水蒸気で、部屋は水の中に沈んでいるようであった。
先輩の名は鹿島さんという。
彼は大学の頃の先輩で、社会人になった今でも交流のある数少ないうちのひとりだった。
「どこでやるんですか?」
「この部屋で怪談をして、隣の部屋でろうそくを消す」
「しかしそれじゃ、隣の住人に迷惑じゃありませんか?」
「彼は日曜日に仕事に行くんだよ、だからきっと大丈夫」
しかし、と言い淀む私に、彼は、
「百物語がやりたい」
――そう云った。
私が明日までに隣の部屋にろうそくを100本立てておくので、キミは50個の怪談を考えてきてくれ、と彼は云った。
外では給油車の耳に残るメロディが流れている。
「50個」
思わず私は繰り返した。
「50個も怪談なんてありませんよ」
「しかしそれじゃ、百物語ができないじゃないか」
「そもそも百物語はもっと大人数でやるものですよ、先輩は50個も怪談を持っているのですか?」
「ないが、やりたいなあ」
彼はそう云うと黙り込んだ。
私は煙草のお婆ちゃんがくれた夕刊に目を通していた。この町では不審な男の目撃が相次いでいるという。
窓の外はもう真っ暗で、窓には私たちふたりの、不健康な姿が写っていた。
「形だけでもやろう」
先輩はそう云うと立ち上がって、ろうそくを買ってくると云い、部屋を出ていった。
相変わらず薬缶は、甲高い声で泣き叫ぶ。
しばらくすると先輩は袋いっぱいのろうそくを持って帰ってきた。
「設置するぞ」
それだけ云うと彼は、隣の部屋の鍵を簡単に開け、中に入り込んだ。
先輩の部屋と同じ間取りの部屋がそこにはあった。しかし家具の配置が違うので、どこかちぐはぐな感じがする。
「なんだか、気持ち悪いですね」
私が云うと、
「なんだか、百物語って云う様相を呈してきたな」
と嬉しそうに笑った。
その後私たちは、百本のろうそくを隣人の部屋に並べた。それはひどく面倒なコトで、途中からふたりとも不機嫌になって、無言で作業を進めた。
先輩の家から出てしばらく歩くと男とすれ違った。私はどうして、その男が先輩の隣人のように思われた。
100本のろうそくが並ぶ家に帰るその男を、私は少しだけ不憫に思った。
旅行と剃刀について
久しぶりに旅行にでた。
不思議なほど重厚な電車に揺られて、少しづつ寂しくなる車窓からの景色を見ていた。
いつからか雪が舞っている。
冬はもう終わりだというのに、その雪は勢いよく降り続ける。
「――雪なんて聞いていませんね」
隣に座る旅客が、じっと外の景色を見ている私に向かって、云った。
「どおりで、寒いと思いましたよ」
私は云った。
隣の男は私の言葉を聞いているのか、
「雪なんて聞いていませんね」と繰り返した。
男は私に向かって云った訳じゃないかもしれない。そう思って思わず赤面した。
「すみません」
恥ずかしさを紛らわすために、少し笑って云ってみた。
「雪なんて聞いていませんね」
男はしかしまだ繰り返している。
私の火照った顔は寒さのせいか、すぐに元通りになった。
「雪なんて聞いていませんね」
男の声は徐々に大きく、高くなっていく。
私は男を無視することに決めて、車窓からの景色に集中した。
男に怯えているのか、耳の奥がどくどくと鳴っている。
ついに男は叫びだした。
「雪なんて聞いていませんね」
男の声はひび割れ、でかく、それでいて甲高い。私の横にある窓が、びりびりと震え、今にも割れそうな様相である。
女が走ってきた。
「落ち着いてください」
男はしかし、叫ぶのをやめない。
男の口からは今にも血が吹き出しそうである。喉には赤と青の血管が浮き出て、そこにすっと剃刀をいれれば、すーっと男は死ぬだろう。
ふいに私は、そこに剃刀をあてたくなった。
私の心臓は先程より高く鳴っている。耳の奥、こめかみの裏で血が脈打って流れている。
――男を見た。
相変わらず叫ぶ男の姿勢はしかし美しい。
背筋はぴんと伸びていて、足は肩幅に広げられている。
しかし喉は今にも張り裂けそうで、拳はぎゅっと握っている。
早く剃刀を、男の喉にあてなくてはならない、なぜかそう思ってかばんを開けた。
たしか剃刀は風呂セットの中に入っている。
「早くしなければ」焦りが思わず声になった。
だが、焦ってばかりで、肝心の剃刀が見つからない。いらいらして、思わずかばんを投げつけた。
かばんは女に当たったらしい。
女は顔を押さえて、うずくまった。
「大丈夫ですか?」
隣の男――さっきまで叫び続けていた男が、まるで心配しているかのように、女に聞いた。
女は泣いているように思われる。
「あんた何してるんだい」
男が私に聞いた。
男の喉には浮き出した血管なんて見られない。男は女を落ち着かせるように、優しく声をかけている。
外を見た。
雪はいつの間にかやんでいた。
私が投げた、かばんから落ちた剃刀が、鉄道の揺れる電灯の光できらりと光っている。
蜜柑と梅と、世界が悪い
蜜柑の木が、これでもかというほど元気に咲いている。その横で、枝垂れ梅が、健気にも儚く、見事な枝ぶりを見せている。
「おい、蜜柑。キミも隣の梅のように、美しくあれ」
蜜柑は答えない。
「聞こえてるんだろう。キミは明るい面をしているくせに、ヒトの話を無視するのか」
風が吹いて蜜柑の木が揺れる。
さわさわさわさわ、それは内緒話をしているように思われた。
「お前、いま悪口を云っただろう。私はお前みたいのが大嫌いなんだよ。周りには良い顔しているくせに、そうやってオレみたいな男のことを、こそこそと裏で笑いやがって。挙げ句の果に、目の前で、嘲笑うのか。それならこちらも容赦しないぞ」
私は道に転がっている石を手にした。
ちらりと梅の方に目をやる。
梅はやっぱり健気で儚く、美しい。
それに比べてどうだ。あの蜜柑のこれでもかというほど主張した笑顔。つまらない。世の中ではあれが人気者になる。憂いも何もない、表面だけの笑顔が。
張り付いたその笑顔に、私は石を投げつけようとした。
「――おい」
不意に蜜柑が云って、私はぎょっとした。
しかし蜜柑が喋るはずがない。蜜柑は彼らみたいに、私に向かって口撃してくるはずがないのだ。
ひとすじの汗がつーっと背中を滑り落ちる。
「なんてことない」
わざと口にだしてそう云うと、深呼吸をしてあたりを見渡した。
「おい、人の庭で何してる」
再び聞こえたその声は、梅と蜜柑を持つ、小さな庭の主人だった。
「いえ、すみません。あまりにも見事な枝ぶりの梅でしたので」
「その石はなんだ?」
私はハッとして石を捨てた。
「その美しい蜜柑と似た、美しく丸い石を見つけたもので。――では、それでは失礼」
踵返してあるき出した。
あいつらはいつもそうだ。
都合が悪くなると誰がを呼んで、まるで私を悪者のように扱うのだ。
夜の散歩と桜のうろについて
夜中、風が強くて起きた。
冷たい風が枯れ木の枝を切って、びゅんびゅんと音をたてている。
私は目が冴えて眠れない、そこでぶらりと散歩に出ることにした。
部屋着にパーカーとコートを羽織って外にでる。冷たい風が隙間という隙間から入り込んで、体に染み込んだ。
行き先のない散歩なので、川沿いを歩くことにした。
右手に川、左手には枯れた桜並木が続いている。川のせせらぎがちゃらちゃらと聴こえる。その音を聴いて、風がやんだことを知った。
辺りに誰もいない。川の音だけが、耳の奥をくすぐるように聴こえた。
風がやんだので、帰って寝ようと思い、来た道を戻ろうとすると、夜空と桜の枯れ木の、薄いコントラストがいやに美しく感じられた。
風が吹いてないのに、枯れ木は少し揺れている。なんだか、その姿が私を卑しく誘っているように思われた。
ふらりふらりと桜に近寄った。
私が私でないように思われる。どこかで自分を俯瞰しているような不思議な気持ちになった。
その桜にはうろがあった。
うろは深く、底がないように思われた。
その色は見たこともないような黒さで、その色だけで私は不安になった。
入らないといけない、なぜか強くそう思った。
ふらりふらりとうろに近づいた。
うろに吸い込まれるように風が、中に向かって吹き込んでいる。
ひゅんひゅんと耳元が騒がしい。
うろに足をかけた。
その瞬間、眩い光が私の目の中に入り込んだ。思わずその光源を探すと、私が歩いてきた道をバイクが走り抜けていくようであった。
気を取り直してうろに入ろうとすると、どこにもなかった。
うろなんて存在しなかったように、桜の木はでんと構えていた。
風がまた強くなった。
私は布団に戻ろうと思って、来た道を戻り始めた。