旅行と剃刀について
久しぶりに旅行にでた。
不思議なほど重厚な電車に揺られて、少しづつ寂しくなる車窓からの景色を見ていた。
いつからか雪が舞っている。
冬はもう終わりだというのに、その雪は勢いよく降り続ける。
「――雪なんて聞いていませんね」
隣に座る旅客が、じっと外の景色を見ている私に向かって、云った。
「どおりで、寒いと思いましたよ」
私は云った。
隣の男は私の言葉を聞いているのか、
「雪なんて聞いていませんね」と繰り返した。
男は私に向かって云った訳じゃないかもしれない。そう思って思わず赤面した。
「すみません」
恥ずかしさを紛らわすために、少し笑って云ってみた。
「雪なんて聞いていませんね」
男はしかしまだ繰り返している。
私の火照った顔は寒さのせいか、すぐに元通りになった。
「雪なんて聞いていませんね」
男の声は徐々に大きく、高くなっていく。
私は男を無視することに決めて、車窓からの景色に集中した。
男に怯えているのか、耳の奥がどくどくと鳴っている。
ついに男は叫びだした。
「雪なんて聞いていませんね」
男の声はひび割れ、でかく、それでいて甲高い。私の横にある窓が、びりびりと震え、今にも割れそうな様相である。
女が走ってきた。
「落ち着いてください」
男はしかし、叫ぶのをやめない。
男の口からは今にも血が吹き出しそうである。喉には赤と青の血管が浮き出て、そこにすっと剃刀をいれれば、すーっと男は死ぬだろう。
ふいに私は、そこに剃刀をあてたくなった。
私の心臓は先程より高く鳴っている。耳の奥、こめかみの裏で血が脈打って流れている。
――男を見た。
相変わらず叫ぶ男の姿勢はしかし美しい。
背筋はぴんと伸びていて、足は肩幅に広げられている。
しかし喉は今にも張り裂けそうで、拳はぎゅっと握っている。
早く剃刀を、男の喉にあてなくてはならない、なぜかそう思ってかばんを開けた。
たしか剃刀は風呂セットの中に入っている。
「早くしなければ」焦りが思わず声になった。
だが、焦ってばかりで、肝心の剃刀が見つからない。いらいらして、思わずかばんを投げつけた。
かばんは女に当たったらしい。
女は顔を押さえて、うずくまった。
「大丈夫ですか?」
隣の男――さっきまで叫び続けていた男が、まるで心配しているかのように、女に聞いた。
女は泣いているように思われる。
「あんた何してるんだい」
男が私に聞いた。
男の喉には浮き出した血管なんて見られない。男は女を落ち着かせるように、優しく声をかけている。
外を見た。
雪はいつの間にかやんでいた。
私が投げた、かばんから落ちた剃刀が、鉄道の揺れる電灯の光できらりと光っている。