転傾倶楽部と電車のオトコ
鼻に神経なんてないよ、と鹿島さんは云った。
「でもつままれたら痛いじゃないですか」
「それは耳だって同じだろう」
確かにと言葉に詰まってしまう。それなら本当は耳にも神経が通っているのではないか。
「――痛うはないて。
と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである」
急に鹿島さんが真面目な声で云うので驚いた。
ぎょっとしている私の顔を楽しそうに見て、
「芥川龍之介の【鼻】だよ、有名だろう。芥川がそう云っているのだから間違いない」
しかし気持ちいいと感じるのもそれは、神経の働きではないのか。
私はそう思ったが、忘れることにした。
会社のみんなが私を遠巻きにするなか、相談できただけでも良かったと思う。
「そういえば前に、始発駅から電車に乗ってサラリーマンの顔を見て楽しむオトコの話をしてくれましたね」
鹿島さんは黙って、点滅している電灯を見ている。
鹿島さんの部屋はやっぱり水の中のように息苦しい。
「最近似たようなやつに出会いましたよ、そのオトコは、満員電車で潰れそうな私を、にやにやと見ていました」
「転傾倶楽部の後輩かもしれないね、そいつは」
「転傾倶楽部?」
「前に話をしたオトコも所属していたんだけれど、劇団の名前でね、自然の流れの中で、劇を作るのさ。出演は1人で、主演はそいつ。エキストラはカメラに収まるすべてのひと」
「なら、私はなかなかないい劇を作ったかもしれません」
鹿島さんが不思議そうにこちらを見る。
「蹴っ飛ばしてやったんですよ、そいつの足を」
私が満足そうに云うと、鹿島さんはにやにやと笑って云った。
「そいつはいけないぜ、君。君も大概、危ないよ」
「しかし、面白い展開でしょう」
「そんなことないさ、――、なんたって嘘だもの」
「嘘?」
「転傾倶楽部なんて存在しないよ」
鹿島さんはそう云って続ける。
「そもそも、そんな行動をする男は私の作り話さ」
「鹿島さんの友達にそんなやつがいたんでしょう?」
「いや、作り話だよ」
「しかし私は、実際にやられましたよ」
「君の勘違いだよ、私のつまらない嘘が、脳内に残っていて、たまたま目があった男を、にやにやしてると勘違いして、蹴っ飛ばしたんだろう。あぶないよ、まったく」
私はなんだか鼻がむずむずするが、あのとき以来、くしゃみをするのが怖い。
私はむずむずする鼻と同じように、釈然としい気持ちになった。