趣味と御焼香と雪について
知り合いに良くない趣味の男がいてね、と鹿島さんは話し始めた。
彼は文机に本をひろげて、私に背中を向けている。
だるまストーブの上に薬缶ではなく、酒粕を焼いているのだが、水の中にいるような感覚は抜けなかった。
男の名前はKという。
彼は無類の新聞好きで、地方紙とタウン誌を2部の合計3部を購読していた。
貧乏学生であった私たちはそいつのことをバカにしたよ。金がないのに新聞なんて読んで、新聞が教養だった時代はもう終わったぞ、とからかった。
朝、下宿の共同スペースで彼は新聞をよく広げていた。またKが新聞読んでるぜ、と皆は笑ってたいして気にもしていなかったが。
私は特別、彼と仲が良かったわけではないが、その日たまたま下宿には私とKしかいなかったので、連れたって近くの洋食屋に向かった。
彼はこの時間から9時くらいまでよく留守にしているので、その日は珍しいこともあるものだ、と思った。
下宿の近くに松浜軒という美味い洋食屋がある。そこのビフテキが食べたい、と彼は云った。
まだ日の名残りがある時間帯で、松浜軒は空いている。店員たちも話しながら夕刻のニュースを見ていた。
がらがらの店は、どこか寒々しさを感じた。
松浜軒にはレジの前に自由に読める新聞紙と雑誌が置かれていたが、彼は全く興味をひかれた様子もなく、そこを通り過ぎた。
「おい、K。大好きな新聞はいいのかい?」
私は彼をからかうように云った。
「夕刊だろう、夕刊なんて興味ないさ」
彼はそう云って、しばらくして出てきたビフテキをむしゃむしゃと食べた。
なぜ彼は夕刊を読まないのか。私は不思議に思ったが、彼があまりにも自信を持ってそう云うので、なんとなく聞きそびれてしまった。
次の日の朝も彼は新聞を読んでいる。
私は彼の後ろを通り過ぎると、彼は熱心に、訃報欄を読んでいるようであった。
そんなに訃報欄を熱心に読んでも何も得るものがないぞ、と云おうとして覗き込むと、彼がにやにやと笑っているのが見えた。
全身の毛が一本立ちするかのような寒気を覚えた。私は恐る恐るKを呼ぼうとして、しかし舌が膨らんで喉に詰まって声が出なかった。
探偵趣味のある私は、その夜、Kの後をつけた。もしかすると、Kは殺人犯で、殺したひとが訃報欄に載るのが楽しみな猟奇犯じゃないかと推測したのである。
Kは浮かれているのが、その後ろ姿からもわかった。
私は恐怖した。もし彼が殺人犯だったらどうすればいいのだろうか、彼は友達である。
――見過ごすコトはできないのだろうか。
いつしか頭の中で、Kはもう殺人犯になっていた。
Kが向かっていく先に、人の群れが見えた。
それは黒い集団で、そういえば、Kもスーツを着ていると、今更ながら気がついた。
彼は歩きながら黒いネクタイをしめて、そこでやっと葬式に向かっているということがわかった。
――私は彼が葬式が出てくるのを待った。
もう私の好奇心は抑えようもないものになっていた。
「やあ」
Kはぎょっとしたように私を見た。
「葬式だったのかい?」
私が聞くとしぶしぶ彼は頷いた。
「知り合いかい?」
Kは首を振って、観念したとのように語り始めた。
その言葉によると、彼はお焼香が病みつきになってしまったらしい。
「お焼香の匂いがたまらないんだよ。なんだろうあれは、煙草と同じようなものなのだろうか。でもね、君。家でお焼香をあげても全然満たされないんだよ。あの並んでいる時間、少しづつ近づく順番。堪らないね、もうやめられないよ」
彼はなんだか、嬉しそうな悲しそうな曖昧な顔をして云った。
「それも嘘なのですか?」
私は聞いた。
「そんなはずないだろう」
「いやそんな人いるはずがありません」
「私だよ」
鹿島さんは云った。
「Kは私だよ」
鹿島さんはこちらを向いて、呟いた。
「本当にあれは中毒性がある」
結露で濡れた窓の外では雪が降っている。
私はいつかの旅行を思い出した。
「雪なんて聞いてないですよ」
そう叫ぶオトコの声が耳に、まだ残っている。私はその話を鹿島さんにしようとしてはっとした。
光の具合だろうか、オトコと鹿島さんが妙に似通って見えた。