警笛はもう聞こえない
駅舎を出ると、客引きが私の袖を引っ張った。
「お客さん、泊まるところはあるのかい?」
温泉街だというのに、降りたのは私ひとりで、それでいて客引きもその男だけであった。
「あんた、男の客引きかい?」
私はなんだか妙な気がして聞く。
「女はみんな出て行っちまった」
男はやけになったように云った。
「いったいどうしてさ」
私が男に訳を聞こうとすると、男はにやりと笑って「部屋で話しますぜ、お客さん」と云った。
どうせ客引きがひとりしかいないのだから仕方ないと思い男についていくと、たいそう豪華な旅館に案内された。
私はわけがあってここに来たので、そんなに金を持っていないと不安になる。
男は私の顔を見てそれを察したのか「安心してください、他の温泉地にある格安旅館の値段で泊まれますので」と云った。
何から何まで妙な場所だった。
私はなんだか不思議な場所に迷い込んでしまったようで、落ち着かなくなった。
男はてきぱきと食事の用意をした。
他の従業員や旅客はいないようで、しんとしている。そのせいか男が動く音が妙にうるさく、それでいて妙にリアルに聞こえた。
「他の客はいないのかい?」
「居ませんねえ」
「従業員は?」
「今は私ひとりですよ」
「よく回せますね」
「それはもう、どうせお客さんなんて、多くてもひとりしか来ないので」
私は男が作った料理を静かに食べた。
静かに食べてもうるさいくらい音がなった。それくらいあたりには音というものが聞こえなかった。
「で、どうして誰もいなのですか? ここら辺には」
「汽笛ですよ。汽笛を恐れたんですよ、みんなは」
「汽笛を恐れる?」
男はじっと考えていたが思い切ったように聞いてきた。
「お客さんも自殺願望でここに来たのですか?」
私はっとした。男はこっちをじっと見ている。
「止めるのかい?」
「止めやしませんよ、慣れてますので」
「慣れている?」
「ここにくるお客さんは、どうしてか自殺願望者が多いのですよ。そのせいか夜になるとひっきりなしに警笛が聞こえる。で、警笛のあとに衝突音が聞こえるんですよね。そりゃもうすごいですよ、警笛とブレーキと衝突音の混じった音は、この世の物とは思えない音なんですよ」
「その音が嫌で、みんな消えたのかい?」
「多くはそうでしょうね、ただそれ以外にも理由はありまして、お客さんが自殺するでしょう? したらね、誰がお金を払うんですか? 律儀にお金をおいて死ぬ人もいますが、大抵の人が夜、こっそり死ぬんですよ。で、大抵の人がお金を持ってきてないんですよね、死に行くのだから、そうかもしれませんが、それじゃ、こっちは困りますよ」
男はそこまで話してお茶を飲んだ。それで、じっとこっちを見ている。
私もお金は持ってきていなかった。どうせ死ぬのだと言う気持ちでここまできた。しかしここでその決断を鈍らせるわけにはいかなかった。
「どうすればいい?」
私は男に聞いた。
「私もすまないが、お金をもってきていない」
男はやっぱりという風にため息をついた。
「私が殺しますよ、それで内蔵とかを摘出して闇で売り払いますので」
「しかしそれじゃあ、警察だって馬鹿じゃない」
「大丈夫ですよ、体は線路に投げ入れるので、――今までもそうやってきましたので」
私はなんだかぞっとした。
「そんなにたくさんの人がここには死にに来るのか」
「来ますよ、私のマーケティングがうまくいっているのですよ。死ぬならここの温泉が良いって感じで、――大変でしたよ。その噂を作るために、ここの住民みんな殺したんですから」
私はぎょっとして男を見た。
「警笛が恐ろしくてみんなはどこかへ行ったんじゃないのか?」
「私、そんなこと言いました?」
男は本当に不思議そうに言った。
それはひどく理不尽で、恐ろしく、それでいて気持ち悪かった。
「言っただろう」
私の声は震えていた。早くここから逃げ出さねばと強く思った。自殺をしに来たことなんて、そんなことどうでもいいように思われた。しかし体に力が入らなかった。どんどん体がだるくなって、ついには目の前が真っ暗になった。
目を覚ますと布団で寝ていた。
夢かと安心して体を起こすと、体が拘束されていることに気がついた。
「夢じゃないですよ、内臓はね、眠っているときよりも活性化しているときに摘出するほうが高く売れるんですよ」
そう言って男が笑っている。
屋上から警笛まで
屋上にいると、ちょっと柵を越えてみたくなる。あー、この柵を越えた瞬間、僕は自由になれる。――なんて妄想してみる。でも知っているよ。この柵を越えて僕は自由になれない。だって僕を縛っているのは僕で、僕は僕から決して離れられない。
僕はたまに何がしたいか分からなくなるときがある。そういう時は数を数える。朝起きてから寝るまでの呼吸数や、まばたきの数、トイレに行った回数や、くしゃみをした回数。それを寝る前にノートに記して、その数を声に出して読み上げる。そうすることで安心する。少なくともこれだけの数、僕は何かをしていたんだって。
それは思春期と言います、と先生が言った。アイデンティティを確立させようと不安定になる時期は誰にもありますので、心配しないでください。と先生は言った。町外れの精神科は、どこか籠もった匂いがした。僕は先生の話を聞きながら無性にムカついた。こんなにも悩まされているのに、それを一括にしてほしくなかった。
非凡でありたかった。他の人とは少し違って見られたかった。だから僕はムカついた。先生の顔を殴って、精神科から脱出することを妄想した。しかし僕はそもそも精神科に囚われているわけでもない。そもそも自分から足を運んだし、先生を殴るなんて、当然できなかった。つまり僕は平凡だった。どこにでもいる男の子だった。思春期の悩めるオトコノコ。それが僕につけられるラベルだった。100円ショップにでも売ってそうな、ちゃっちい、大量生産されたラベルだった。
ポケットに入れた「ライ麦畑でつかまえて」はかっこつけだった。正直この小説を面白いと思ったことがないし、主人公には共感ができなかった。それをポケットに忍ばせてるだけで、少し他の人とは違うと思われるような気がした。
電車がホームに入ってくるのが見えた。どうどうと重厚な音を立てて、電車は近づいてくる。今ならば、今ならあっちのホームに走り抜けれるんじゃないかと、意味もなく思った。走り抜けたところで何も意味なんてないんだけれども、それをやり遂げれば僕は、どこか他の人と違って見られることができるかもしれない。足を踏み出そうとする。耳の裏やこめかみ、いたるところで、血管がどくどくと音を立てている。足が重い。片足を持ち上げるだけでひと苦労だ。僕は思わず笑ってしまった。こんなことをしようとしているのは僕だけだ。そう思うと自然と足が前にでた。線路は小刻みに揺れていたと思うと、上下に大きくうねり始めた。もう目の前に電車がいる。運転士と目があったので笑ってみた。きっと僕は明日の新聞に載るだろう。そう思うと嬉しくなった。警笛が聞こえたけれど、それはどこまでも鋭く、それでいて全く持って無意味な音の響きだった。
背中を押されて、なにしてんだよ、と舌打ちをされた。電車はホームにきれいに収まっていた。ドアが開いて、僕の後ろに並んでいた人が、不審そうにこっちを見ながら乗り込んでいく。僕は笑い転げたくなった。わけのわからない妄想して、しかし僕自身ここから1歩も動いていない。思春期と言ってね、その年になると多くの人がそうなるの。先生の言葉がリピートする。結局僕は平凡で何にもなれない僕だった。思わず面白くなってげらげら笑った。ポケットの中の「ライ麦畑でつかまえて」を線路に投げ入れた。なんだいこんなつまらない本、僕はそう呟いて家に帰る。
銃口を屋上で
広大な、果てのない青空の下。
屋上で僕は生まれて初めて告白された。
高校3年生の夏のことだ。
太陽の光を屋上が吸収して、足の底が燃えるように熱い。
「用って何?」
僕は言ったけれど、本当はわかっていた。
机の中に手紙があって屋上に来てくださいなんて、告白以外の何ものでもない。
目の前の女の子は1個下の高校2年生だった。
彼女はもじもじと恥ずかしそうに、上目遣いで、僕を見た。
――暑い。
僕は正直、彼女に興味もなかったので、ただひたすら暑いと思った。
もちろん生まれて初めて告白されるので、緊張はするのだけれど、どうせなら体育館裏とか、太陽の日が当たらないところにしてくれれば良かったのにと考えていた。
どうして女の子は汗をかかないのだろう。
僕の背中は汗で濡れていて、ワイシャツが貼りついて気持ち悪い。
彼女が小さく息を吸った。
僕はっとして彼女の瞳を覗き込む。
その瞳が、なんだか妙に愛おしく感じられた。
僕は先ほどとはうって変わり、彼女の告白を受け入れようとしている。
彼女を愛するなんて、今はまだ言えないけれど、この先、いくらでもそうなれる可能性はあった。
雰囲気に流されたんだろ、って言われるかもしれない。そして、言われたらたしかに否定はできなかった。
「私、銃を拾ったの」
彼女告白は、あまりにも突飛で、この青空と、屋上には不釣り合いだった。
――汗は相変わらず止まらなかった。
彼女は懸命に、銃を拾ったときの話をしている。身振り手振りで話す姿はまるで、か弱い小動物だった。――拳銃を所持した小動物。
「それでどうするの? 警察に届け出るなら一緒に行こうか?」
僕が言うと彼女は首を振った。
「それはできないの」
「どうして?」
「試し撃ちしちゃったの」
彼女の目は爛々と輝いている。
「試し撃ち?」
「そう、近所にね、いつもゴミ出し場を荒らす烏がいてね、その子を撃ったの」
僕は黙って空を見上げた。
この空の下には何億という人がいて、それでも僕らと同じような会話をしている人は存在しないだろう。
「どうするの?」
僕は馬鹿みたいに質問することしかできなかった。
「どうもしないよ」
僕はわけがわからなくなって、とりあえず何かを話していないと気が狂いそうだった。
しかし彼女は僕に喋らせる暇を与えない。
「私は、先輩が好き」
ひどくつまらない芝居を見ているような展開だったが、僕は舞い上がった。
「殺しちゃいたいくらい好き。
ずっと先輩が好きで、でも踏ん切りがつかなくって、だってさ、本当に好きで、それを告白して先輩に断られたら、きっと私は気が狂っちゃうから。だからなんとか先輩に好きになってもらおうと、インターネットでたくさん調べて、惚れ薬なんて、10万もしたの。それをこっそり先輩のアクエリアスに入れたんだけれど、効果があるかないかわからなくって。でもね、でも今なら言えるの。だって断れば、殺しちゃえばいいんだもの。おかしいって思うかもしれないけれど、それくらい好きなの。先輩が誰かのものになるのは嫌。それであれば私は先輩を撃ち殺すよ。
理不尽?
全く理不尽じゃないよ。だって私は、先輩が受け入れてくれてもここで撃ち殺すよ。なんでって、当然じゃない。いずれどこかで嫌われるもの。せっかく付き合えるのに、付き合えるのに虚しいじゃない。
だからね、本音で答えてほしいの。
どっちみち殺されるんだからね、私と付き合うか付き合わないか、本音を言って」
彼女はそう言って銃口を僕に向けた。
やっぱりそれは、青空と屋上という風景になじまない。
銃口の黒い丸、永遠を奪い取るほど、深い黒を僕はじっと見つめた。
瞬きをせずにそれを見つめて、空を見上げたとき、青空にポッカリと黒い丸が浮かび上がった。
やっと、この世界と状況がリンクした。そう思うと笑い出したいくらい愉快に思えた。
口づけを銃口に
僕は知っている。
君の胸ポケットには拳銃が入っていて、いつでも僕のこめかみをぶち抜くことができる。
僕は君の一挙手一投足を見逃さない。
机に突っ伏した腕の隙間からいつも君を観察している。チャイムがなるまで僕はそこからじっと動かない。
君はそれはもう上手に拳銃を隠している。
俗に言うクラスメートは彼の拳銃に気がついていて、それが胸ポケットから出てくるのを楽しみにしている奴さえいる。
しかし先生には決してその存在をばらしてはいけない。
なぜならばらした人もまた常に、彼のスコープに狙われることになる。
しんとした瞬間が1番危ない。
君は話題がなくなったとき、その拳銃を1つのツールとして活用する。
その1丁の拳銃が小刻みに区切られた学園生活では本当に有効とされる。
何かの授業で、爆弾が落ちたとき、耳と目を塞いで、口を開けろって習った気がする。
僕はそれを実践する。
彼が拳銃を胸ポケットにしまうまで、世界の片隅に、できるだか小さく小さく、存在しようとする。
いつか、僕は学校に来れなくなるだろうか。
僕は実は拳銃に狙われた2人目の犠牲者で、その前に拳銃を向けられていた子は、学校に来なくなった。
それから僕が、彼らの的になった。
そう、彼らの――。
もちろん僕は君が嫌いだ。
でも、それと同等に君らが嫌いだ。
でも僕もこの前まで君らだった。
拳銃を持つ君と笑わないとしても、傍観をしていた。
助けてくれなんて言わないよ、だってもし君らと同じになれるなら僕は今からでもそっちに行く。
でももう無理だ。
きっと僕はずっとこちら側にいるに決まっている。
それならそれで考えがある。
僕は君の一挙手一投足を見ている。
君が僕に拳銃を向けた瞬間、僕はふらりと立ち上がって、君に向かって歩き出した。
君は驚いたように、拳銃を付き上げる。
銃口からは君の唾が撒き散らされる。
いつもの笑いは存在しない。みんなが呆気にとられたように、この馬鹿馬鹿しい西部劇を見ている。
安心してほしい。僕は拳銃なんて持ってないし、誰かを傷つけようなんて思っていない。
僕は精一杯近づいて銃口にキスをした。
誰もが驚いたように、僕らを見ている。
君はもう引き金を引けない。
君は後ろに下がるしかない。
頬に衝撃が走って僕は床に倒れ込んだ。
君は僕を見下ろしている。
僕は、学校の最下位カーストからキスをされた男に向かって、にっこり笑った。
学校では1つのデキゴトがその階級を大きく左右する。
君はもうきっと拳銃を持てない。
雪とカラスに口づけを
雪が傘に落ちる、そのぼそぼそと云った曖昧な感触が、愛おしい。
少しづつ重くなる傘の上にはまだ誰に踏まれていない新鮮な雪が積もっていく。
私はそれを誰にも踏ませないように、傘から落とさないように大事に持ち運んでいく。
雪が降ると妙に神経が研ぎ澄まされたように感じられる。
曇っているのに不思議に明るく輝いた世界で、すべての音が雪に吸い込まれてしまったと思えるほどに静かだ。
雪の降った朝、世界は少し特別に感じる。
カーテンから差し込む光と、カーテンを開けた瞬間に感じるさーっとして深々とした感覚。
その特別な感じは幼少の頃から今まで変わっていない。
小学生のとき、真っ白な雪の中に、真っ黒な大きなカラスがいたことがある。
それが妙に気に食わなくて、私はカラスに向かって走り出した。カラスは近づくに連れてその大きさが明らかになり、まるで恐竜だなと思った。
カラスは逃げなかった。鋭い視線で私をじっと見つめながら、しかし飛ぶ気配さえなかった。
カラスの目の前に来たとき、どうしようと思った。
本当は少し脅かしてやろうと思っただけなのに、カラスは全く驚かない。
私は走ってきた勢いで、カラスを捕まえてしまった。
カラスの首は、恐竜のような見た目からは、驚くほど細く華奢だった。
小学生の私でも2つの手のひらで掴めるほどで、このまま力を入れれば折れてしまいそうだった。
私は徐々に力入れた。カラスが鳴きだそうとしたので、さらに強く握ると、その鳴き声は不細工な呻きのようになって少しだけ漏れた。
このまま殺してやろうと思った。
雪景色を汚した罰なので、仕方がないと思った。
目の前からおばさんが歩いてくる。
カラフルなくすんだ色合いの服で、雪の中で見事に浮いている。
君のほうが幾分ましだったよ、と私はカラスに思いをこめながら首を絞める。
「何してるの?」
とおばさんが云った。
近づいてきたおばさんは私のしていることに気がついて悲鳴を上げた。
「やめなさい」と叫ぶその姿は、雪景色に全く似合わない。
「お前も殺してやるぞ」
私は云った。
それを聞いておばさんは走るようにどこかへ消えた。その足跡がやっぱり汚い。
理由を聞いてくれればいいのに、と私は思った。聞いてくれれば答えてあげるのに。「あなたがあまりにも汚らわしいから」と。そうしたら次は気をつけてくれたかもしれない。あるいは最初に理由を説明すべきだったのだ。そうすれば誰も傷つかないですんだ。小学生の私は、カラスの首を絞めながら少しだけ賢くなった。
雪が傘に落ちる、そのぼそぼそと云った曖昧な感触が、愛おしい。
それは俗に云う食べちゃいたいくらい愛おしい。
私は傘をおいた。とうぜん、積もった雪が落ちないように、そっと雪においた。さくりと小気味よい音がする。
空に向けて口を開けた。雪が、その愛すべき雪が、私の口の中に入ってくる。
雪は入ってくると同時に溶ける。口の中に入ると同時に消えていく。
口の中いっぱいに積もるまで口を開けていようと思った。
私はいま、愛すべき雪と口づけしようと、空に口を開けている。
趣味と御焼香と雪について
知り合いに良くない趣味の男がいてね、と鹿島さんは話し始めた。
彼は文机に本をひろげて、私に背中を向けている。
だるまストーブの上に薬缶ではなく、酒粕を焼いているのだが、水の中にいるような感覚は抜けなかった。
男の名前はKという。
彼は無類の新聞好きで、地方紙とタウン誌を2部の合計3部を購読していた。
貧乏学生であった私たちはそいつのことをバカにしたよ。金がないのに新聞なんて読んで、新聞が教養だった時代はもう終わったぞ、とからかった。
朝、下宿の共同スペースで彼は新聞をよく広げていた。またKが新聞読んでるぜ、と皆は笑ってたいして気にもしていなかったが。
私は特別、彼と仲が良かったわけではないが、その日たまたま下宿には私とKしかいなかったので、連れたって近くの洋食屋に向かった。
彼はこの時間から9時くらいまでよく留守にしているので、その日は珍しいこともあるものだ、と思った。
下宿の近くに松浜軒という美味い洋食屋がある。そこのビフテキが食べたい、と彼は云った。
まだ日の名残りがある時間帯で、松浜軒は空いている。店員たちも話しながら夕刻のニュースを見ていた。
がらがらの店は、どこか寒々しさを感じた。
松浜軒にはレジの前に自由に読める新聞紙と雑誌が置かれていたが、彼は全く興味をひかれた様子もなく、そこを通り過ぎた。
「おい、K。大好きな新聞はいいのかい?」
私は彼をからかうように云った。
「夕刊だろう、夕刊なんて興味ないさ」
彼はそう云って、しばらくして出てきたビフテキをむしゃむしゃと食べた。
なぜ彼は夕刊を読まないのか。私は不思議に思ったが、彼があまりにも自信を持ってそう云うので、なんとなく聞きそびれてしまった。
次の日の朝も彼は新聞を読んでいる。
私は彼の後ろを通り過ぎると、彼は熱心に、訃報欄を読んでいるようであった。
そんなに訃報欄を熱心に読んでも何も得るものがないぞ、と云おうとして覗き込むと、彼がにやにやと笑っているのが見えた。
全身の毛が一本立ちするかのような寒気を覚えた。私は恐る恐るKを呼ぼうとして、しかし舌が膨らんで喉に詰まって声が出なかった。
探偵趣味のある私は、その夜、Kの後をつけた。もしかすると、Kは殺人犯で、殺したひとが訃報欄に載るのが楽しみな猟奇犯じゃないかと推測したのである。
Kは浮かれているのが、その後ろ姿からもわかった。
私は恐怖した。もし彼が殺人犯だったらどうすればいいのだろうか、彼は友達である。
――見過ごすコトはできないのだろうか。
いつしか頭の中で、Kはもう殺人犯になっていた。
Kが向かっていく先に、人の群れが見えた。
それは黒い集団で、そういえば、Kもスーツを着ていると、今更ながら気がついた。
彼は歩きながら黒いネクタイをしめて、そこでやっと葬式に向かっているということがわかった。
――私は彼が葬式が出てくるのを待った。
もう私の好奇心は抑えようもないものになっていた。
「やあ」
Kはぎょっとしたように私を見た。
「葬式だったのかい?」
私が聞くとしぶしぶ彼は頷いた。
「知り合いかい?」
Kは首を振って、観念したとのように語り始めた。
その言葉によると、彼はお焼香が病みつきになってしまったらしい。
「お焼香の匂いがたまらないんだよ。なんだろうあれは、煙草と同じようなものなのだろうか。でもね、君。家でお焼香をあげても全然満たされないんだよ。あの並んでいる時間、少しづつ近づく順番。堪らないね、もうやめられないよ」
彼はなんだか、嬉しそうな悲しそうな曖昧な顔をして云った。
「それも嘘なのですか?」
私は聞いた。
「そんなはずないだろう」
「いやそんな人いるはずがありません」
「私だよ」
鹿島さんは云った。
「Kは私だよ」
鹿島さんはこちらを向いて、呟いた。
「本当にあれは中毒性がある」
結露で濡れた窓の外では雪が降っている。
私はいつかの旅行を思い出した。
「雪なんて聞いてないですよ」
そう叫ぶオトコの声が耳に、まだ残っている。私はその話を鹿島さんにしようとしてはっとした。
光の具合だろうか、オトコと鹿島さんが妙に似通って見えた。
転傾倶楽部と電車のオトコ
鼻に神経なんてないよ、と鹿島さんは云った。
「でもつままれたら痛いじゃないですか」
「それは耳だって同じだろう」
確かにと言葉に詰まってしまう。それなら本当は耳にも神経が通っているのではないか。
「――痛うはないて。
と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである」
急に鹿島さんが真面目な声で云うので驚いた。
ぎょっとしている私の顔を楽しそうに見て、
「芥川龍之介の【鼻】だよ、有名だろう。芥川がそう云っているのだから間違いない」
しかし気持ちいいと感じるのもそれは、神経の働きではないのか。
私はそう思ったが、忘れることにした。
会社のみんなが私を遠巻きにするなか、相談できただけでも良かったと思う。
「そういえば前に、始発駅から電車に乗ってサラリーマンの顔を見て楽しむオトコの話をしてくれましたね」
鹿島さんは黙って、点滅している電灯を見ている。
鹿島さんの部屋はやっぱり水の中のように息苦しい。
「最近似たようなやつに出会いましたよ、そのオトコは、満員電車で潰れそうな私を、にやにやと見ていました」
「転傾倶楽部の後輩かもしれないね、そいつは」
「転傾倶楽部?」
「前に話をしたオトコも所属していたんだけれど、劇団の名前でね、自然の流れの中で、劇を作るのさ。出演は1人で、主演はそいつ。エキストラはカメラに収まるすべてのひと」
「なら、私はなかなかないい劇を作ったかもしれません」
鹿島さんが不思議そうにこちらを見る。
「蹴っ飛ばしてやったんですよ、そいつの足を」
私が満足そうに云うと、鹿島さんはにやにやと笑って云った。
「そいつはいけないぜ、君。君も大概、危ないよ」
「しかし、面白い展開でしょう」
「そんなことないさ、――、なんたって嘘だもの」
「嘘?」
「転傾倶楽部なんて存在しないよ」
鹿島さんはそう云って続ける。
「そもそも、そんな行動をする男は私の作り話さ」
「鹿島さんの友達にそんなやつがいたんでしょう?」
「いや、作り話だよ」
「しかし私は、実際にやられましたよ」
「君の勘違いだよ、私のつまらない嘘が、脳内に残っていて、たまたま目があった男を、にやにやしてると勘違いして、蹴っ飛ばしたんだろう。あぶないよ、まったく」
私はなんだか鼻がむずむずするが、あのとき以来、くしゃみをするのが怖い。
私はむずむずする鼻と同じように、釈然としい気持ちになった。