雪とカラスに口づけを
雪が傘に落ちる、そのぼそぼそと云った曖昧な感触が、愛おしい。
少しづつ重くなる傘の上にはまだ誰に踏まれていない新鮮な雪が積もっていく。
私はそれを誰にも踏ませないように、傘から落とさないように大事に持ち運んでいく。
雪が降ると妙に神経が研ぎ澄まされたように感じられる。
曇っているのに不思議に明るく輝いた世界で、すべての音が雪に吸い込まれてしまったと思えるほどに静かだ。
雪の降った朝、世界は少し特別に感じる。
カーテンから差し込む光と、カーテンを開けた瞬間に感じるさーっとして深々とした感覚。
その特別な感じは幼少の頃から今まで変わっていない。
小学生のとき、真っ白な雪の中に、真っ黒な大きなカラスがいたことがある。
それが妙に気に食わなくて、私はカラスに向かって走り出した。カラスは近づくに連れてその大きさが明らかになり、まるで恐竜だなと思った。
カラスは逃げなかった。鋭い視線で私をじっと見つめながら、しかし飛ぶ気配さえなかった。
カラスの目の前に来たとき、どうしようと思った。
本当は少し脅かしてやろうと思っただけなのに、カラスは全く驚かない。
私は走ってきた勢いで、カラスを捕まえてしまった。
カラスの首は、恐竜のような見た目からは、驚くほど細く華奢だった。
小学生の私でも2つの手のひらで掴めるほどで、このまま力を入れれば折れてしまいそうだった。
私は徐々に力入れた。カラスが鳴きだそうとしたので、さらに強く握ると、その鳴き声は不細工な呻きのようになって少しだけ漏れた。
このまま殺してやろうと思った。
雪景色を汚した罰なので、仕方がないと思った。
目の前からおばさんが歩いてくる。
カラフルなくすんだ色合いの服で、雪の中で見事に浮いている。
君のほうが幾分ましだったよ、と私はカラスに思いをこめながら首を絞める。
「何してるの?」
とおばさんが云った。
近づいてきたおばさんは私のしていることに気がついて悲鳴を上げた。
「やめなさい」と叫ぶその姿は、雪景色に全く似合わない。
「お前も殺してやるぞ」
私は云った。
それを聞いておばさんは走るようにどこかへ消えた。その足跡がやっぱり汚い。
理由を聞いてくれればいいのに、と私は思った。聞いてくれれば答えてあげるのに。「あなたがあまりにも汚らわしいから」と。そうしたら次は気をつけてくれたかもしれない。あるいは最初に理由を説明すべきだったのだ。そうすれば誰も傷つかないですんだ。小学生の私は、カラスの首を絞めながら少しだけ賢くなった。
雪が傘に落ちる、そのぼそぼそと云った曖昧な感触が、愛おしい。
それは俗に云う食べちゃいたいくらい愛おしい。
私は傘をおいた。とうぜん、積もった雪が落ちないように、そっと雪においた。さくりと小気味よい音がする。
空に向けて口を開けた。雪が、その愛すべき雪が、私の口の中に入ってくる。
雪は入ってくると同時に溶ける。口の中に入ると同時に消えていく。
口の中いっぱいに積もるまで口を開けていようと思った。
私はいま、愛すべき雪と口づけしようと、空に口を開けている。